1970〜80年代のプロレス黄金期、日本のファンに強烈な衝撃と恐怖を刻み込んだ外国人レスラーがいる。
その名はローラン・ボック。
“地獄の墓掘人”という異名で知られ、故アントニオ猪木さんとの壮絶な一戦「シュツットガルトの惨劇」で語り継がれる存在だ。
そのローラン・ボックさんが、2025年12月19日までに亡くなっていたことが、米国メディアやドイツ紙によって報じられた。享年81歳だった。
ローラン・ボック死去の報道と死因について
ドイツ紙「STUTTGARTER ZEITUNG」は、現地時間12月19日、ローラン・ボックさんが創設者の一人であったドイツ・ルートヴィヒスブルクのクラブ「ロックファブリック」のFacebook投稿をもとに、**「レスリングスターのローラン・ボックが81歳で亡くなった」**と伝えた。
また、米国のプロレス・格闘技専門メディア「レスリング・オブザーバー」も同日、ボックさんの死去を報道している。
現時点で、死因については公式に明らかにされていない。
高齢であったことから、病死または自然死の可能性が高いとみられるが、具体的な病名や状況については公表されておらず、詳細は不明となっている。
この点については、今後遺族や関係者からの追加発表を待つ必要がある。
ローラン・ボックとは何者だったのか
ローラン・ボック
Roland Bock
1944年8月3日生まれ
ドイツ・旧西ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州ガイスリンゲン出身
リングネームは「ローランド・ボック」と表記されることもあり、1978年の猪木戦を報じた日本の雑誌では、誤って「ローラン・ブルック」などと紹介された例もあった。
彼はアマチュアレスリング界の超エリートであり、単なるプロレスラーではない、異色の経歴を持つ人物だった。
アマチュアレスリング時代の輝かしい実績
ボックは14歳でレスリングを始め、瞬く間に頭角を現す。
1961年
西ドイツ・ジュニア選手権で優勝
1963年
シニア選手権フリースタイルで3位入賞
1964年
東京オリンピック代表にノミネートされるも、関節の負傷により出場を断念
1968年
メキシコシティオリンピックに、グレコローマンスタイル・ヘビー級の西ドイツ代表として出場
1970年
欧州選手権優勝
1972年
ミュンヘンオリンピック出場予定だったが、欧州選手権当日の体調不良による欠場を理由に、ナショナルチームを除名。出場停止処分を受ける
この処分については、興奮剤の使用を巡るトラブルがあったとも伝えられているが、詳細は諸説ある。
プロレス転向と「地獄の墓掘人」誕生
1973年、ローラン・ボックはプロレスラーへ転向。
アマレスで培った高度な技術と、ヘビー級の巨体から繰り出される怪力は、当時の欧州マット界でも異質な存在だった。
一方で、プロレスの暗黙の了解を無視するような危険なファイトスタイルでも知られ、
ジョージ・ゴーディエンコ
ダニー・リンチ
アントニオ猪木
アンドレ・ザ・ジャイアント
といった名だたるレスラーとの試合では、相手を故意に負傷させたのではないかという悪評も付きまとった。
この妥協なき、容赦のない戦いぶりから、日本では
「地獄の墓掘人」
という異名で呼ばれるようになる。
アントニオ猪木との激闘
シュツットガルトの惨劇
1978年11月、ボックは「イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978」において、アントニオ猪木さんと対戦する。
このツアーで両者は3度対戦し、
ボック1勝
猪木1勝
引き分け1
という戦績だった。
だが、日本のファンに放送されたのは、11月25日、シュツットガルトで行われた3戦目のみだった。
この試合で、ボックは終始猪木を圧倒。
受け身の取れない投げ、異常なまでの関節攻撃、激しい締め技を浴びせ続けた。
猪木はこのシリーズを通して右肩を負傷し、満身創痍の状態だったとされる。
現地のマットは硬く、オガクズを敷いた木の上にエプロンを貼っただけの劣悪な環境。
さらに23日間で21試合という、常軌を逸したスケジュールも重なっていた。
この一戦は後に
「シュツットガルトの惨劇」
と呼ばれ、日本のプロレス史に深く刻まれることになる。
新日本プロレス参戦と引退
1981年、ローラン・ボックは新日本プロレスに初参戦。
1982年1月1日、後楽園ホール大会でアントニオ猪木と再びシングル戦を行った後、ボックは現役引退を表明した。
その後は表舞台から距離を置き、レスリングや興行の世界に関わっていくことになる。
アンドレ・ザ・ジャイアントとの危険な一戦
1979年12月16日、ドイツ・ジンデルフィンゲンで行われた
ローラン・ボック vs アンドレ・ザ・ジャイアント戦。
この試合は6ラウンド無効試合に終わったが、内容は極めて危険なものだった。
ボックはアンドレに対し、いわゆる“シュート”とも取れるスープレックスを放つ。
しかし直後、アンドレのボディ・プレスを受け、左足を負傷。
この怪我が引き金となり、血栓症を発症し、心臓麻痺につながる重篤な状態に陥ったとされている。
長期間の治療とリハビリを余儀なくされ、この試合がドイツ国内での最後の試合となった。
ローラン・ボックという存在の評価
ローラン・ボックは、単なる悪役レスラーではない。
オリンピック級の実績を持つアマレスエリートであり、その力と技術は本物だった。
一方で、プロレスの枠を超えた危険な戦い方は、多くの賛否を生み、恐怖と伝説を同時に残した。
彼の存在なくして、1970〜80年代の国際プロレス史は語れない。
まとめ
・ローラン・ボックさんは81歳で死去
・死因は公表されておらず不明
・アマレス五輪級の実績を持つ異色のレスラー
・アントニオ猪木との「シュツットガルトの惨劇」で伝説化
・アンドレ戦では重篤な負傷を負い、キャリア終盤に影響
“地獄の墓掘人”が残した足跡は、今もプロレス史の深部に刻まれている。