プロ野球日本ハムで活躍し、その後は指導者として長く球界に貢献した高代延博(たかしろ のぶひろ)さんが、2025年12月9日午後8時42分、食道胃接合部がんのため亡くなりました。71歳でした。
現役時代は堅実な守備と勝負強い打撃で知られ、引退後はコーチとして多くの球団に携わり、WBCでは日本代表コーチとして優勝にも貢献しました。一方で、一部選手との確執や指導スタイルを巡って評価が分かれる人物でもあり、その存在は常に野球界の議論の対象となるほど影響力の強いものでした。
本記事では、高代延博さんの経歴、死因、家族、そして語り継がれる山崎武司選手との確執や悪評の背景について整理していきます。
死因は食道胃接合部がん

訃報は大阪経済大学により発表されました。高代さんは同大学の野球部監督を務め、学生野球の育成に尽力していました。
死因は「食道胃接合部がん」。近年はグラウンドでの姿は見られていたものの、詳細な闘病に関する情報は多く語られておらず、公には病状を明らかにしなかったと考えられます。葬儀・告別式については非公表とされ、家族の意向が尊重された形となっています。
野球界からは功績を悼む声が多数あがっており、特に共に戦った元選手や指導者仲間からは、その分析力や緻密な戦術眼を称えるコメントが多く寄せられています。
妻や子供 家族構成について
公に明かされている情報は限られており、妻や子供の存在についても公式な発表はありません。プライベートに関する情報がほとんど出ていないことから、高代さん自身が公私を明確に分けるタイプであった可能性も考えられます。
野球人としては多くの報道や功績が語られる一方、家庭に関する情報がほとんど残されていないという点は、晩年に至るまで家族を表に出さず過ごしてきた姿勢を映すものとも言えるでしょう。
経歴と輝かしい成績
奈良県出身の高代延博さんは、智辯学園高校で内野手として頭角を現し、法政大学では2度のリーグ制覇に貢献。1975年秋には打率.500で首位打者となるなど、大学時代からすでに高い評価を受けていました。
社会人野球・東芝では中心選手として活躍し、都市対抗野球では優勝にも貢献。その後1978年ドラフト1位で日本ハムファイターズに入団し、プロの舞台へ。80年にはベストナインに輝き、11年間の現役生活で通算772安打、57本塁打、346打点、54盗塁という記録を残しました。
コーチ転身後は広島、中日、阪神、日本ハム、ロッテ、オリックスなど複数球団を渡り歩き、特に采配や走塁面での知識と戦術眼は高く評価。2009年と13年のWBCでは内野守備走塁コーチを務め、09年大会の優勝を支えました。
一方で語られた確執と悪評
高代延博という人物を語る上で欠かせないテーマが、山崎武司氏との確執とされる話です。
山崎氏の著書や日刊ゲンダイの連載によれば、
・上司に媚びるタイプ
・監督に影響力を持ちスタメンに口を出す
・選手目線では会話できない指導スタイル
といった記述があり、山崎氏は高代さんにより自身がスタメンから外されることが多かったと語っています。「高代さんが監督に山﨑を外すよう進言した」という具体的エピソードも掲載されており、これらの証言が高代氏の悪評につながった背景と考えられます。
また、中日で同僚だった長嶋清幸氏も確執があったことを認めつつ、「意見の違いで揉めたが、選手を悪い方向へ導いたわけではない」「嫉妬ややっかみもあった」と語るなど、両者の関係性には複数の視点が存在します。
つまり、高代さんが高い評価と同時に批判も受けた理由は、強い意志と指導哲学を持っていたからこそとも考えられ、指導者としての存在感が大きかった証とも受け取れます。
功績と影響の大きさ
指導者としての彼の功績は明確です。
・WBC日本代表コーチとして優勝に貢献
・複数球団で戦術面を改善
・若手育成にも尽力
・大学野球にも知識を還元
野球界に残した財産は非常に大きく、現役時代を知らない若い世代のファンにも語り継がれるほどの影響力があります。
厳しい面、評価の分かれる側面があったとしても、その裏には勝利に対するこだわり、指導者としての責任感があったことは間違いありません。
まとめ
食道胃接合部がんで死去した高代延博さんは、名遊撃手としての実績、そして名コーチとしての功績を残した人物でした。一方で、山崎武司氏との確執に代表されるように、強い指導スタイルから賛否が生まれたことも事実です。
しかし、
勝つために何をするべきか
選手をどう導くか
野球の本質とは何か
その答えを常に追い求めたからこそ議論が生まれ、評価が分かれたのではないでしょうか。
功績、賛否、影響力。そのすべてを含め、野球界に大きな足跡を残した人物であったことに疑いはありません。
高代延博さんのご冥福を心よりお祈りします。