作家として、そして編集者として独自の立ち位置を築いた嵐山光三郎さん。本名は祐乗坊英昭さんといい、エッセーや旅、食にまつわる軽妙な文章で多くの読者に愛されました。
また、テレビにもたびたび出演し、親しみやすい語り口でお茶の間でも人気を集めた人物です。
この記事では、嵐山光三郎さんの家族、妻や子供の情報、学歴や編集者としての経歴、そしてテレビ出演の中でも特に印象深い「笑っていいとも!増刊号」について、わかる範囲で丁寧にまとめます。
嵐山光三郎の死因
【訃報】作家・嵐山光三郎さん死去 83歳https://t.co/CawXDJqOYZ
文芸や旅、食などのテーマを捉えたエッセーで知られ、テレビでも活躍。雑誌『太陽』の編集に16年携わり、編集長も務めた。「笑っていいとも!増刊号」などテレビやCMにも出演し、お茶の間に親しまれた。 pic.twitter.com/2pphqeAEcd
— ライブドアニュース (@livedoornews) November 28, 2025
嵐山光三郎さん(本名・祐乗坊英昭)は
2025年11月14日、肺炎のため死去 されました。
享年83歳でした。
公表されている情報は以下のとおりです。
死因:肺炎
報道により、嵐山光三郎さんの死因は 「肺炎」 と明らかにされています。
高齢者にとって肺炎は重症化しやすく、日本国内でも高齢者の主要な死亡原因のひとつです。
83歳という年齢を考えると、体力の低下が重なった可能性も推測されますが、詳細な病状の経過や入院期間などは公開されていません。
亡くなられた日と葬儀
・2025年11月14日 に死去
・告別式は近親者のみで執り行われた と発表されています
公的に大規模な告別式が行われたわけではなく、ご家族の意向で静かに見送られたようです。
家族構成 嵐山光三郎の妻や子供について
嵐山光三郎さんの家族について、公式に大きく情報が公開されているわけではありません。
近年の作家や文化人は家族への配慮から、妻や子供に関する情報を公表しないことも多く、嵐山さんも同様でした。葬儀については「近親者で執り行った」とされており、プライバシーを重視する家族の方針がうかがえます。
ここからは推測ではなく、報道や公開情報に基づく確実な内容のみ記します。
まず、嵐山さんには身近で支えてきた家族がいたことは間違いありません。編集者として多忙を極め、独立後は作家として執筆やテレビ出演を続ける日々であったため、長年にわたり家庭の支えがあったことは容易に想像できます。
しかし、妻の名前や職業、子供がいるかどうかといった具体的な情報は公開されていません。
そのため、本記事では憶測は避け、事実のみをお伝えします。
嵐山光三郎 生い立ちと家族背景
嵐山光三郎さんは1942年1月10日、静岡県浜松市で生まれました。
父は祐乗坊宣明さんで、戦後の1950年に東京都北多摩郡国立町(現在の国立市)へ移り住みます。嵐山さんは国立で育ち、国立学園小学校に通っていました。同級生には後に外交官となる登誠一郎さん、そして朝日新聞社で活躍した宮本貢さんなどがおり、この頃から周囲には個性ある人物が集まっていたと言えるでしょう。
学歴 國學院大學文学部国文科
小学校卒業後は桐朋中学校、そして桐朋高校へと進みます。
桐朋といえば芸術や文化系分野に強い学校として知られ、数多くの文化人を輩出してきました。嵐山さんもこの環境の中で文学的感性を磨いていったと考えられます。
高校時代には、のちに舞踏家として知られる笠井叡さんが二学年下におり、大学時代には笠井さんの紹介で土方巽の金粉ショーのアルバイトを体験するなど、既に若い頃から前衛芸術の中心に触れています。
大学は國學院大學文学部国文科に進学し、中世文学を専攻しました。
大学時代には丸谷才一、安東次男といった錚々たる文学者の講義を受け、その影響はのちのエッセーや文学観にも色濃く表れることとなります。
編集者としての華やかなキャリア
1965年、國學院大學を卒業した嵐山光三郎さんは、平凡社へ入社しました。
当時の平凡社は「国民百科事典」の大ヒットにより勢いがあり、魅力的な編集者が多く集まっていました。谷川健一、林達夫、西巻興三郎など、個性豊かな人物に囲まれながら編集者としての経験を積みます。
雑誌「太陽」「別冊太陽」での活躍
嵐山さんが最も活躍したのが、平凡社が発行していた雑誌「太陽」「別冊太陽」です。
「年賀状の図案特集」などの企画で人気を集め、後に編集長も務めました。
文学、芸術、民俗学、写真など幅広いテーマを扱う雑誌だったため、多くの文化人や芸術家と知己を得ることになります。
その中には檀一雄、澁澤龍彦、深沢七郎といった名だたる作家もおり、特に深沢七郎さんの影響は大きく、嵐山さんは深沢さんを「師匠」と呼ぶほどでした。
クリエイターたちとの出会い
嵐山さんは仕事を通して、唐十郎、山野浩一、麿赤兒、鎌田忠良、篠山紀信、糸井重里など、後に日本の文化・メディアを支える個性派たちと交流します。
また、広告会社から平凡社に入ったイラストレーター安西水丸さんとも出会い、1976年には合作絵本「ピッキーとポッキー」を出版します。
40年で70万部を売り上げたロングセラーとなり、この作品は嵐山さんの編集者・作家としての幅広さを象徴するものとなりました。
独立後は作家・エッセイストとして幅広く活躍
平凡社で16年にわたり雑誌制作に携わった後、嵐山さんは独立します。
その後はエッセー、小説、旅や食に関する文章など幅広く執筆し、ユーモアと遊び心のある軽妙な文体で多くの読者に支持されました。
エッセーの中には、文化人としての交友録や、編集者時代の経験を語った作品も多く、文化史的価値を持つものも少なくありません。
テレビ出演と「笑っていいとも!増刊号」への参加
嵐山光三郎さんが一般的に広く認知されるきっかけとなったのが、テレビ出演です。
タモリさん司会の人気番組「今夜は最高!」に雑誌『月刊ドリブ』の宣伝を兼ねて出演したことがひとつの転機となりました。
この出演をきっかけに、1982年からフジテレビの「笑っていいとも!増刊号」に編集長としてレギュラー出演します。
「笑っていいとも!」は当時の日本の昼の顔ともいえる看板番組で、増刊号は日曜版として人気を集めていました。
嵐山さんは独自の視点を持った文化人として、かつ庶民的でユーモアのある語り口で視聴者から親しまれ、タモリさんとの掛け合いも人気の一因となりました。
テレビ出演はその後も継続し、CMにも登場するなど活躍の場を広げていきます。
晩年と逝去
2025年11月14日、嵐山光三郎さんは肺炎のため83歳で亡くなりました。
葬儀は近親者で執り行われ、静かに見送られています。
昭和から令和までの長い文化史において、嵐山さんが残してきた文章は多岐にわたり、日本のエッセー文化に大きな役割を果たしました。
雑誌文化の黄金期を担い、旅や食の魅力を軽やかに伝え、テレビを通じて一般の視聴者にも親しまれたその存在は、多くの読者・視聴者にとって忘れがたいものとなっています。
まとめ
嵐山光三郎さんは
編集者として文化の最前線を歩み
作家として読者に寄り添い
テレビ出演を通して大衆にも愛された人物でした。
家族構成の詳細は公開されていないものの、生涯にわたり創作と発信を続けた姿勢からは、周囲の支えがあったことが感じ取れます。
昭和から令和まで60年に及ぶ活動は、日本の出版文化史の中でも特に大きく刻まれるものであり、その影響は今後も語り継がれていくでしょう。
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