1970年代の日本社会に大きな衝撃を与えた「連続企業爆破事件」。その中心メンバーでありながら、ただ一人、逮捕されることなく49年間逃亡を続けた男が、桐島聡(きりしま さとし)でした。
桐島さんは2024年1月、末期がんで入院した病院でついに本名を名乗り、その4日後に死亡しました。
逃亡半世紀という前代未聞の人生の末に、彼は何を思い、どのような最期を迎えたのでしょうか。
この記事では、桐島聡とはどんな人物だったのか、事件で何をしたのか、逃亡生活、親族との関係、そして話題となった“最期の言葉”まで、分かりやすく丁寧に解説していきます。
本文は事件を過度に刺激的に扱わず、事実を基に落ち着いた表現でまとめています。
桐島聡の生い立ち
どんな家庭で育ったのか
桐島聡さんは1954年1月9日、広島県深安郡神辺町(現在の福山市)で生まれています。
広島県立尾道北高等学校を卒業後、明治学院大学に進学しました。
この大学時代に、後に「東アジア反日武装戦線」の中心人物となる黒川芳正さんや宇賀神寿一さんと出会い、過激派思想へと傾倒していきます。
当時の日本の学生運動は大きな転換期で、一部の組織は過激な武装闘争路線に向かっていました。桐島さんもその潮流の中に巻き込まれた一人であり、学生活動家から地下組織のメンバーへと変化していきます。
桐島聡はなにをしたのか
連続企業爆破事件への関与
桐島さんがメンバーだった「東アジア反日武装戦線」は、1974〜75年にかけて企業施設を狙った爆破事件を相次いで実行しました。
その中で桐島さんが関与したとされる事件の一部は次の通りです。
・鹿島建設爆破事件(1974年12月23日)
・間組本社ビル爆破事件(1975年2月28日)
・間組江戸川作業所爆破事件(1975年4月27日)
・京成江戸川橋工事現場爆破事件(1975年5月4日)
・オリエンタルメタル社・韓産研爆破事件(1975年4月19日)
これらの事件では幸いにも死者こそ出ていませんが、複数の負傷者が発生し、企業施設にも大きな損害が生じています。
桐島さんが担当していたのは、爆弾の設置や現場の下見などの実行に直接関わる役割だったとされています。
1975年に指名手配
そこから逃亡が始まる
1975年5月、組織の他のメンバー7人が相次いで逮捕され、警察は桐島聡さんの存在を把握。爆発物取締罰則違反の容疑で全国指名手配されました。
その直前、桐島さんは東京都新宿区の飲食店でアルバイトをし、逃走前日には渋谷区の銀行で現金を引き出したことまで確認されています。
さらに、5月31日には広島の実家に電話し、
「岡山に女と3人でいる。金を準備してくれ。国外へ逃亡することも考えている」
と父親に告げたのが、生前の家族との最後の直接の会話でした。
ここから桐島さんは完全に姿を消し、日本の“空白の49年”が始まります。
親族との関係
長年疎遠となった理由
逃亡後、桐島さんと親族との関係は完全に途絶えていきました。
親族側は、事件の重大性やメディア報道の大きさから、自分たちの生活にも影響が出ることを恐れていたと言われています。
桐島さんの遺体が発見された際、親族は遺体の引き取りを拒否し、その対応は世間にも衝撃を与えました。
もちろん、親族の対応には様々な感情や背景があり、一概に「冷たい」などと評価できるものではありません。
事件の重さ、逃亡の長さ、そして社会の目――そのすべてが複雑に絡み合い、距離が生まれたものと考えられます。
逃亡生活とはどんなものだったのか
偽名「内田洋」としての人生
2024年の身柄確保後の調査により、桐島さんの逃亡生活の一部が明らかになっています。
・偽名「内田洋(うちだひろし)」を使用
・神奈川県藤沢市の工務店で住み込みで勤務
・身分証なし、給与は現金払い
・工務店近くの6畳の寮で単身生活
・地域のバーに20年前から通い、「うっちー」と呼ばれていた
店での彼は陽気で、音楽イベントでは「イェイ、イェイ」と声援を送るほど明るく、人と打ち解けるタイプだったと証言されています。
指名手配犯としての緊張感を漂わせる様子はほとんどなく、周囲の人は「普通のおじさん」と口を揃えていました。
逃亡生活は苦しいものと思われがちですが、桐島さんはあえて人との交流を断たず、地域に溶け込むことで“逆に怪しまれない”生き方をしていた可能性があります。
健康状態の悪化
入院と身元判明までの経緯
2023年頃から体調が悪化し、健康保険証がないため自費診療で病院に通っていたことが分かっています。
2024年1月、症状が急激に悪化し入院。そこで桐島さんは、ついに本名を告げました。
「最期は本名で迎えたい」
そう話したとされています。
病院側はすぐに警察へ連絡し、公安部が身柄を確保。桐島さんは危篤に近い状態ながら、事件に関する短時間の聴取に応じました。
そして1月29日、午前7時33分。
逃亡49年の末に、桐島さんは息を引き取りました。
最期の言葉
「後悔している」
事情聴取の中で、桐島さんは事件についてこう語っていたとされています。
「後悔している」
逃亡生活の49年という年月は、若い頃の思想の熱狂から大きく離れた人生を歩ませたことは間違いありません。
過去の行動に対する後悔なのか、家族との断絶なのか、それとも偽名で生き続けた孤独なのか――
何を指しての後悔なのかは本人以外には分かりません。
しかし、49年を経て初めて語られた言葉であったことから、多くの報道で“最期の言葉”として引用されました。
死後の扱い
無縁仏として合葬の可能性
親族が遺体の引き取りを拒否したため、桐島さんの遺体は藤沢警察署から鎌倉市に引き渡され、逗子市内の火葬場で火葬されました。
引き取り手がない場合、自治体によって無縁仏として合葬されることになります。
長い逃亡生活の末に、家族からの受け入れも得られなかった事実は、この事件が残した深い爪痕を象徴していると言えるかもしれません。
まとめ
桐島聡という人物の“重さ”とは
桐島聡さんの人生は、若い頃の思想に基づく行動が、その後の人生すべてを決定づけてしまった典型的な例と言えます。
・学生運動から武装闘争へ傾倒
・連続企業爆破事件への関与
・49年に及ぶ逃亡
・偽名での孤独な生活
・最期に「後悔している」と語る
・親族に遺体を拒否される
その全てが、事件の深刻さと社会的な影響を物語っています。
桐島さんの人生は「逃亡者」という一言で片付けられない複雑さがあり、同時に、若い世代にとっては「思想や行動が人生全体にどれほど影響するか」を示す重大な教訓でもあります。
本記事が、事実を正確に理解し、この事件について考える一助になれば幸いです。