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内館牧子の死因 旦那や子供 生い立ちや経歴 高校や大学はどこ

脚本家であり、女性として初めて大相撲の横綱審議委員会(横審)委員を務めた内館牧子さんが、2025年12月17日、急性左心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。
77歳でした。

内館さんはドラマや大河作品を通じて多くの名作を世に送り出し、同時に相撲界にも深く関わった稀有な存在でした。
本記事では、内館牧子さんの死因、家族構成、生い立ちや学歴、そして脚本家としての歩みと人物像について詳しくまとめます。

目次

内館牧子の死因は急性左心不全

内館牧子さんの死因は「急性左心不全」と公表されています。
急性左心不全とは、心臓の左側が正常に血液を送り出せなくなることで、呼吸困難や意識障害を引き起こす重篤な状態です。

内館さんは2008年に心臓弁膜症で倒れ、緊急手術と長期療養を経験していました。
その後は仕事に復帰し精力的に活動していましたが、心臓に持病を抱えていたことは知られており、今回の急逝につながった可能性があります。

葬儀は近親者のみで執り行われ、喪主は弟の均(ひとし)さんが務めました。

旦那や子供はいるのか

内館牧子さんは生涯独身を貫いたことで知られています。
結婚歴はなく、夫や子供はいません。

本人はエッセイやインタビューの中で、結婚や家庭を持たない人生について率直に語ることがありました。
仕事に打ち込み、自分の生き方を自ら選択する姿勢は、多くの女性から共感を集めていました。

家族としては、両親と弟がおり、弟の存在が晩年まで支えとなっていたといわれています。

内館牧子の生い立ち

内館牧子さんは1948年9月10日、秋田県秋田市土崎港に生まれました。
父は岩手県盛岡市、母は秋田市の出身です。

父親は日本冷蔵(現在のニチレイ)に勤務しており、その転勤に伴い、幼少期は新潟県や東京都で過ごしました。
4歳で新潟に移り住みましたが、幼稚園になじめず、いじめを受けて退園した経験を持っています。

その後、小学校3年生から高校2年生までを東京都大田区雪谷で過ごしました。
この幼少期の孤独な時間に、ラジオで大相撲中継を聴くようになったことが、後の人生を大きく左右します。

いじめから助けてくれた体の大きな男の子の存在が、「体の大きな人は優しい」という原体験として心に刻まれ、相撲への強い愛情につながっていったと本人は語っています。

高校や大学はどこ

内館牧子さんの出身高校は、東京都立田園調布高等学校です。
都内でも自由な校風で知られる学校で、内館さんの感性や独立心を育んだ環境だったと考えられます。

高校卒業後は、武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科に進学し、1970年に卒業しました。
大学在学中はラグビー部のマネージャーを務め、初代女子マネージャーでもありました。

さらに、50代半ばとなった2003年からは東北大学大学院文学研究科に進学し、宗教学の視点から相撲を研究。
2006年に修士課程を修了し、修士(文学)の学位を取得しています。

社会人から脚本家への転身

大学卒業後、内館牧子さんは三菱重工業に入社し、横浜製作所に勤務しました。
当初は数年で退職するつもりでしたが、その後も会社員生活を続けることになります。

しかし、仕事に満足できず、三味線や小唄など多くの習い事に打ち込む一方で、日本相撲協会に床山志願の手紙を書いたり、新聞社に相撲記者の採用を問い合わせたりと、行動力は際立っていました。

29歳の時点でそれらの挑戦がすべて実を結ばず、一度は挫折を味わいます。
それでも会社帰りにシナリオライター養成学校へ通い、新人コンクールで佳作を受賞したことをきっかけに道が開けました。

35歳で三菱重工を退社。
1988年、40歳にして脚本家デビューを果たします。

脚本家としての代表作

内館牧子さんの名を一躍有名にしたのが、1990年放送のドラマ「想い出にかわるまで」です。
その後、NHK連続テレビ小説「ひらり」「私の青空」、大河ドラマ「毛利元就」など、数多くの話題作を手がけました。

とりわけ「ひらり」は、相撲好きの女性を主人公に据えた斬新な作品として高い評価を受けました。
自身の人生や価値観が色濃く反映された作品群は、今なお多くの視聴者の記憶に残っています。

女性初の横綱審議委員会委員

2000年、内館牧子さんは女性として初めて横綱審議委員会委員に就任しました。
この人事は当時、大きな話題となり、賛否も巻き起こしました。

内館さんは横綱の品格を厳しく問い、「横審の魔女」と呼ばれるほど辛口の発言で注目されました。
特に朝青龍関への厳しい指摘は連日のように報じられましたが、その根底には相撲道への深い敬意がありました。

晩年と受章歴

晩年は週刊誌の連載コラムやインタビューを中心に活動。
2019年には秋の叙勲で旭日双光章を受章しています。

また、東日本大震災復興構想会議委員や大学客員教授として、社会的な役割も果たし続けました。

まとめ

内館牧子さんは、脚本家として、そして相撲文化の語り部として、唯一無二の存在でした。
遅咲きのデビュー、女性初の横審委員という前例のない挑戦、生涯独身という生き方。

そのすべてが、強い意志と覚悟に支えられたものでした。
内館牧子さんの残した言葉や作品は、これからも多くの人の心に生き続けるでしょう。

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